一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.6 April (1) 腑に落ちないこと

星 元紀 (東京工業大学生命理工学部)

 今年も新人を迎える季節となった。期待に胸をふくらませている初々しい姿は,いつ見ても心和む。このあたりでは花吹雪の頃と重なり,学年暦を4月に始めるのはこのためではないかと思うような光景となる。新設の学科(学部)や専攻(大学院)では,喜びも殊のほかであろう。筆者の勤務する学科でも,九年前に迎え入れた一期生が,博士となってこの春巣立った。彼ら披女らを迎えた頃を思い返すうちに,当時から何とも腑に落ちない思いが,また心の中で轟きだした。

 新入生の受け入れに関することである。といっても,筆者の経験は国立大学に限られており,これもひとり国立大学に限っての問題なのかもしれない。もしそうだとすると,この紙面にはふさわしくない話題かもしれないが,次代会員養成の相当部分を国立大学が担っているという現状に鑑みて,ご容赦願いたい。

 いろいろな経緯の挙げ句に,めでたくも学科や専攻の新設が認められ,予算化される。すると,まずは最初に学生の募集ということになる。場合によっては時ならず学生を募集することさえある。筆者にとって腑に落ちぬのは,このこと,すなわち新設されるや否や,学生を募集するという現実である。学科や専攻の新設が認められたとしても,教師の定員や講座は,学年進行で徐々に予算化されるのが普通である。したがって,たとえ予定人事を内々に進めておいたとしても,直ちに教師が揃うわけではない。ましてや,人事の活発な交流を心掛け,優秀な人材を広く内外に求めるとすれば,定員が予算化され,公募を開始してから実際に着任するまでにはかなりの時間がかかるというのが道理である。言い換えれば,現行のやり方では,最初の数年は,充分に教師が揃わないうちに教育を始めるということになる。

 しかもである,建物に到っては,会計法上の制約から(と承っている)学科設置後でなければ予算の申請すら出来ない。それゆえ,教育・研究活動を行う場が用意できるのは,どんなに早くても,最初の学生が入ってから数年後ということになってしまう。諸施設もまた然りである。したがって,意欲に燃えて入学した一期生は,必然的に無い々々尽くしのままで卒業というのが相場となる。もっとも,教師と学生の間に,同じ困難に立ち向かう者としての連帯感が生まれ,教育効果が挙がるという副産物がないわけでもないが。

 もし,たとえば自動車学校とか料理教室が,校舎も教師も備品も,宣伝したほどには整わないうちに学生を募集したら,世間で何と言われるだろうか。なぜ,国立大学だけ,そのようなことが許されているのだろうか。教育・研究活動に必要な場所を確保し,優秀なスタッフを揃えたうえで,少なくとも1年ぐらいの準備期間を設けてスタッフ間の意志の疎通をはかり,良きチームワークが醸し出されるようになってきたところで,初めて学生を受け入れる準備ができたといえるのではないだろうか。

 こんなことを申し上げると,何をねぼけたことを,と現実に詳しい方ほど,お思いになられるだろう。しかし,ふり返れば,わが国が安かろう悪かろうといわれた工業製品を,細々と輸出していた頃に創設された北海道帝国大学理学部では,教授・助教授の予定者(候補者であったかもしれない)を国外に派遣し,研鑚を積ませたと聞いている。その人遠が,確か“巴里”で会合した時の記念写真というものを拝見したことがあるが,そこには,後に自然科学の諸分野で,それぞれに大家となられた高名な先生方の若き日の情熱に燃えた姿がとどめられていた。確かに,当時と現在では国立大学の数も違う。しかし,日本の経済は飛躍的に伸びた。当時と今の,その隔たりに思いを馳せていただきたい。何も,国外に派遣せよといっているのではない。教育に必要な人員と諸設備がある程度整うまでは,学生の受け入れを延ばすべきではないかと申し上げているのに過ぎない。

 自らを世界のリーダーと擬し,数年のうちに留学生の数を現在の数倍にしようという計画が高らかに謳われる国である。そこにおいて,学生,教師,校舎の順で新設学科が整えられていくとは,なんとも腑に落ちない話ではないだろうか。


(1995-04-01)

日本細胞生物学会賛助会員