一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.17 January (7) 月田承一郎博士を偲んで

石川 春律

 京都大学教授の月田承一郎博士が昨年12月11日に永眠されました。1年余の膵臓がんとの闘病ののち、52歳という若さでした。日本を代表する偉大な科学者を失いました。何とも言い表せない悲しみを覚えます。研究者としてこれから益々の活躍が期待されている最中のことで、死を覚悟されてからの辛い日々が偲ばれます。残される家族のこと、今取り組んでいる研究やこれからの展開したい研究のことを思い、さぞ悔しく無念であったことでしょう。亡くなる直前まで研究室に出かけられ、研究の指導をされ、論文原稿に眼を通された態度からして、なお研究半ばの壮絶な死と言えます。ここに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

 月田承一郎博士との付き合いは長い。呼び慣れていることから月田君とあえて呼ばせていただく。親しく接した月日が走馬灯のごとく頭を巡る。絶やすことのなかった笑顔が目に浮かび離れない。月田君との最初の出合いは昭和49年、東京大学医学部1年の解剖学の授業の時に遡る。解剖学がそろそろ終わりに近づいた頃、月田君が山田英智教授の部屋にやって来て、「将来基礎医学の研究者になりたい。まずは電子顕微鏡を習いたい」というような申し出があった。私も同席していてこのことを覚えている。教授は快諾されて、当時助教授であった私が手解きをすることになった。月田君は毎日の授業を真面目に受ける学生であり、クラブ活動の陸上部の練習を終えてから研究室に現れるという日が続いた。熱心な上に、飲み込みが早く、たちまちに面倒な技術を習得していった。そこで、何か研究をしてみたいということで、当時私が取り組んでいた神経軸索内輸送と細胞骨格の関わりについて研究を分担することになった。以後、医学部在学中を通して研究活動が続いた。まず軸索の微細構造を見直すことから始めた。軸索内の滑面小胞体を選択的に染め出す技術を開発して、厚い切片にして超高圧電子顕微鏡で観察した。小胞体はほとんどが連続した網目構造をとっていることわかった。その成果をその時にすでに入会していた学会で発表し、論文で公表した。研究はほとんどが夕刻から夜中にかけて行われ、よく体が持つものと感嘆することしきりであった。科学への強い関心は恵まれた家庭環境で育まれたものであろう。研究についてよく議論したが、月田君は鋭い感覚の持ち主で、切れる頭で問題の本質を見抜き、問題を提起し、実験計画を立てすぐに実行に移す力は類い稀なるものであった。

 研究は着実に進展し、軸索内で何がどのように運ばれるかを明らかにするという大きなプロジェクトに取り組んでいった。昭和53年、大学を卒業、迷うことなく大学院博士課程に進み、引く続き解剖学教室で研究を共にすることになった。大学院には早智子夫人と同時の入学となった。二人は二年前に結婚していて、夫人はちょうど薬学研究科修士課程を修了していた。大学院では、二人の研究テーマは異なったが、互いに助け合う形になった。文字通りオシドリ夫婦で朝から晩まで常に一緒に研究室で過ごした。月田君は神経の軸索輸送の研究を続け、軸索内の早い輸送は膜小胞の形で運ばれ、順行性と逆行性で膜の種類が異なることを独創的な手法で明らかにした。医学部で学んだ解剖学も生かされ、見事な成果となった。そこに行く着くまでは試行錯誤もあったが、次々とアイデアを出し実践に移し、満足できない結果に悩むことも楽しいらしく、心底から研究生活を楽しんでいるように見えた。その後、軸索内の微小管を膜小胞との結びつきを形態学的に明らかにするべく、連続切片像による再構築に取り組んだ。これには大変な時間と労力を費やし、成果を出したあと、二度をこのような仕事はご免だと述懐していたのを思い出す。これまでは微細形態学は細胞生物学の主な分野であったが、これからは機能を重視した分子レベルの取り組みが主流になると考え、生化学の研究室に学内留学することになった。先見性のある決断であった。そこでも見事な成果を次々に出していった。その一つは、当時グリアフィラメントの蛋白質構成が問題になっていたが、脳組織から単離を試みても、ニューロフィラメントが混入するなどで結果が一定していなかった。月田君は眼球摘出後の視神経がグリア細胞だけになることに着目し、これを材料に生化学的分析を行ない、2種類の蛋白質が存在することを明らかにした。これは正に形態学の十分な知識があってこそのアイデアであった。一方、早智子夫人は細胞膜の裏打ち構造をテーマにして、ヒト赤血球膜の裏打ち構造について形態学および生化学の両面から分析し、次々と新知見を発表していった。これには月田君の側面からの助けも大きかったと思う。

 第2回の国際細胞生物学会議が西ベルリンで開かれたが、そこに月田君は大学院生でありながらシンポジストの一人に選ばれた。大学から渡航援助を受けることができ、私も便乗して夫妻と三人でベルリンに行くことになった。パリから西ベルリンまでの往復は汽車旅行であったが、散々苦労の末、何とか間に合って辿り着いたことをついこの前のことのように思い出す。月田君はシンポジウムで外国留学経験もないのに流暢な英語で見事な講演をし、聴衆を魅了した。帰路は行き当たりばったりの行程であったが、ドイツ国内を弥次喜多道中さながらの楽しい旅行となった。多くの写真が残されているが、月田君のちゃめっけなポーズが目立つ。その頃研究室には若い研究者が増え、賑やかになった。週1回の抄読会は英語でやり、後はシンポジウムと称し酒盛りになるのが常だった。月田君は陽気な明るい性格の持ち主で、ユーモアのセンスが抜群で、話題豊富なエンタテイナーでもあり、常に座の中心を占めた。その笑顔から子供達から漫画のドラエモンそっくりと呼ばれることを自慢にもしていた。また、万能のスポーツマンであり、教室の野球チームのリーダーも務めた。また、物事に強く感動するタイプであり、大きく夢見るロマンティストでもあった。その人柄は出会った人々をことごとく魅了するに十分であった。

 昭和57年大学院修了と同時に、解剖学教室の講師に就任し、研究活動はさらに加速していった。急速凍結法を応用した筋収縮や繊毛運動を分子レベルで解析する研究に熱中し、分子の動きを微細形態学的に捉えた成果は大きな反響を得た。共同研究者として毎日のように議論に熱を上げ、実験結果に一喜一憂し、成果が公表されたといっては祝いをするなど、実に充実した楽しい時期であった。私が群馬大学に移ることになったあと、月田夫妻は後に残り研究活動を続けた。昭和61年、東京都臨床医学総合研究所に移り、独立した研究室を主宰することになった。夫妻で研究室を立ち上げ、細胞接着の問題に着手した。早智子夫人が取り組んで来た細胞膜裏打ち構造の延長線であったが、研究の方向転換であり、新たな分野への挑戦となった。上皮細胞の接着複合体の単離に肝臓を用いるという実にユニークな発想があった。ここでもオシドリ研究が見事に展開された。持ち前の指導力に惹かれ多くの若い人達が加わり、活気みなぎる研究室となり、研究は大きく発展していったことは当然の成りゆきであった。平成2年、岡崎国立共同研究機構生理学研究所教授に就任し、さらに平成5年に京都大学医学部医化学教授に転任し、現在に至っていた。月田君の研究の方向は徹底した形態学を基盤においた分子細胞生物学であった。形態学出身の医化学教授は異例の人事だったと思うが、期待通りの活躍が異例でなかったことを証明した。近年の研究の発展を詳しく紹介する必要はないが、単離した接着複合体の綿密な解析から、タイトジャンクション局在の内在性膜蛋白質としてオクルディン、次いでクローディンを発見し、大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。以後、がん細胞の接着と運動、接着と極性などへの発展を含め、この研究分野のパイオニアとして世界をリードして来た。

 月田君は若くして学士院賞受賞をはじめとして、数多くの学術賞を受賞する栄誉を受けた。月田君は卓越した洞察力、研究推進力、発表力の持ち主であった。所属した学会の中でも日本細胞生物学会は一貫して活動の主要な場であり、学会発展への貢献も大きい。私が会長を務めた時も庶務幹事として学会運営に尽力していただいた。月田君の活躍振りは身近に接して来た私にとって大きな誇りであった。これからさらなる発展が期待される中、科学界における掛け替えのない人を失った。疾風のごとく現れて、偉大なる足跡を残し、また疾風のごとく去っていった。薫陶を受けた多くの若い研究者が後を立派に引継いでくれることを期待したい。

 在りし日々の姿を偲びつつ、謹んで月田君のご冥福をお祈りいたします。


(2006-01-31)

日本細胞生物学会賛助会員

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