一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.17 January (3) 月田さんを偲ぶ

古瀬 幹夫

 月田さんと生物学の関わりは灘中学高校時代にさかのぼる。当時の月田さんは生物部に所属し、高知県の西端にある沖ノ島に海洋生物の採集に出かけて生物の多様性に造詣を深める一方、欧米から聞こえてくる当時の分子生物学の興隆に興奮し、おおいに刺激を受けた。そして、分子生物学研究を目指して東京大学医学部に入学した。ところが、医学部生となったとき、山田英智先生の組織学講義で電子顕微鏡写真を見せられて、細胞のあまりに美しく理にかなった形態に圧倒、魅了され、山田先生のおられた解剖学教室を訪ねることになる。以来、毎日教室に出入りして、当時助教授であった石川春律先生から、電子顕微鏡を使った形態学と細胞生物学における哲学を学んだことが、その後の月田さんの研究者人生を決めたという。もう一つ忘れてならないのは、東大に入ってすぐ、当時薬学部学生で、公私にその後30年以上にわたる同志となる早智子さんに出会ったことで、大学院からは二人で石川先生の指導を受けた。大学院時代、月田さんは、神経軸索における早い物質輸送の実体が、両方向性に運ばれる異なる膜構造であることを世界ではじめて形態学的に証明するという画期的な研究成果を発表して、神経軸索の詳細な微細構造についての急速凍結法をとりいれた電子顕微鏡観察とあわせて学位を取得、さらに講師となって急速凍結技法を駆使して筋収縮におけるアクトミオシンの動態を解析し、生物物理学会の研究者とも交流を深めてセンスを磨いた。

 32才の若さで東京都臨床医学総合研究所の室長として独立を果たしたとき、早智子さんと一緒に電子顕微鏡形態学に基づく分子生物学を目指し、細胞間接着装置アドヘレンスジャンクションの裏打ち構造の機能解析という新しいテーマを設定して、二人三脚の研究をスタートさせた。このプロジェクトは、送風機からみぞれが飛び散るコールドルームでラット肝臓と格闘したあと、ローターの歳差運動を指で補正しながら回すショ糖密度勾配超遠心によってアドヘレンスジャンクション膜画分を単離するというドロドロの生化学と、当時京都大学理学部の竹市雅俊先生のもとで、抗体を用いたエレガントな発現クローニングによってE- カドヘリンの塩基配列を決めて機能解析を行ったばかりの永渕昭良さんが加入して立ち上がった分子生物学がうまくかみ合うことにより動き出す(ここまでの経緯は私が月田さんから酒の席などで何度も聞かされた話である)。その後プロジェクトは、岡崎国立共同研究機構生理学研究所、京都大学医学部へと大きく発展しながら引き継がれ、現在広く知られている月田さんの「タイトジャンクションの分子構築と上皮バリアの研究」、また最近特に進展の著しい早智子さんの「ERM蛋白質による上皮頂端膜領域の形成」や「中心体と線毛形成の研究」に直接つながっている。

 私は、1992年に総合研究大学院大学博士課程学生として、当時、生理学研究所にあった月田研の一員となった。以来、数回あった節目ごとに縁が続き、 13年以上にわたり月田さんと一緒に研究を楽しむ幸運を得た。月田研以前の私は、大学、会社と会わせて5年間、研究に悩み続けていた。そして最後のチャンスと思いながら、本当に興味ある分野で研究するために決死の覚悟で月田さんに手紙を出して月田研の門を叩いたのだが、結果、これは私のこれまでの人生における最高に正しい選択となった。月田研究室の自由な雰囲気はもちろんだったが、今思えば、当時の幼稚な私にとって一番大きかったのは、研究における第一線の問題意識に当たり前のように触れさせてくれる月田さんの「見えない」指導であった。気づかぬまま意識改革されて存分に研究に打ち込んだ結果、幸運にも細胞接着間構造タイトジャンクションに存在する初めての膜タンパク質オクルディンを見つけることができた。さらに助手として京都大学に移ってから、クローディンファミリーの同定と機能解析を通じて、月田さんと一緒に、タイトジャンクションのバリア機能の分子基盤に関する概念を確立できたことは本当に幸せであった。実はこの一連の研究、月田さん曰く「小さな発見」ではあるが、なかなかドラマチックな過程を辿った。その詳細は、亡くなるひと月前に月田さんが書かれた著書「小さな小さなクローディン発見物語」(副題「若い研究者へ遺すメッセージ」、2月14日羊土社より出版予定)に記されている。

 月田さんはサイエンスに対して揺るぎないスタンスを持っていた。研究には常にオリジナリティーを求め、素朴な疑問から出発し、独自の視点から本質的なサイエンスを作り上げていく構成力を重視した。逆に、多くの競争相手と似通った方法で一番乗りを目指すような仕事は嫌いで、ついそのようなアイデアを出しがちな学生たちを丁寧にたしなめた。研究者としては誰もが対等であるべきという生物物理学者大沢文夫先生の教えに習い、月田さんも学生に自分のことを「先生」と呼ばせなかったことは、月田研ホームページを読まれた方ならご存知かもしれない。そして、親しい人間ばかりの研究室内でも、オリジナリティーを尊重するという月田さんの態度は一貫していた。ディスカッションをしていて、研究室員がおもしろい仮説やアイデアを思いつくことがある。また、稀にではあるが、電顕写真の解釈で、月田さんより先に別の人間がもっともな解釈をしてしまうことがある。そのような時、負けず嫌いの月田さんは実はとても悔しい(ということが周りの者には手に取るようにわかった)。しかし、次からディスカッションでその話が出るときには必ず、「◯◯(名前)の説」とか言って、その人の考えであることを徹底して尊重した。月田さんに憧れる若い者は、自分の説なんて言われると、ちょっと認められたような気がして嬉しくなる。 月田さんは、研究室員の個性と自主性を重んじ、ひたすら個人の内から伸びてくるものを信じておられた。助手になりたての若かった私は、土日に大学院生がなかなか研究室に来ない状況が気になって仕方なかったが、月田さんは意に介しなかった。さらに月田さんが学生を怒ることは無かった。他人を怒れるほど自分がしっかりしている自信がないという本人の弁であったが、本当は、怒ることで学生を萎縮させてはならないという配慮だったに違いない。能率が悪いかもしれないが、このようなやりかたの方がサイエンスの発展にとって絶対によいのだ、と確信を持って話した。確かに月田研はそれでうまく動いた。そして、学生に対して、サイエンスにおける心構えはエンジョイの一言だと説いた。苦しくて思い悩むのもエンジョイのうちだという。まだ私は「苦しいのもエンジョイのうち」という言葉をまだ完全には飲み込めないが、いつか月田さんが達していた境地を少しでも理解したいと思う。

 月田さんがいなくなってしまうことを覚悟したどうしようもない悲しみの中で、私は、これまでの感謝の気持ちを伝えなければと何度も思った。しかし、体調が悪いにもかかわらず早智子さんに支えられて毎日研究室に来て、懸命に論文作成に取りかかる月田さんにとても声をかけられず、それ以上に、一言でも感謝を口にすればそれで最後になるような気がしてできなかった。ところが、11月22日の月田さんからの電子メールで、事務的な文面に加えて短いメッセージがあり、その最後に「理想的なenjoy scienceをさせてくれて有り難う。」と先に感謝の言葉をもらってしまった。結局これが月田さんから届いた最後のメールとなったが、そのときはまだ十分に時間が残されていると思っていた私は、ついにこのメールに返信できなかった。最期の2時間ほど前、私はこれまで育ててもらった事に対して感謝の言葉を月田さんに直接述べたが、聞き届けてくれただろうか。そのときは動転して言えなかったが、「月田さんと一緒に研究ができて本当に楽しかった。本当にいいことばかりでした。」と伝えたかった。 もうわずかしか時間が残されていない状況で、月田さんは、自分の作り上げた研究(のスタイル、スタンス)を壊さずに継承することを私たちに強く望まれた。月田研で過ごして十分に体に染みついたはずのセンスを信じて、私たちは月田さんの期待に応えられるよう努力したい。


(2006-01-31)

日本細胞生物学会賛助会員

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