一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.19 June,July & August (2) なぜか叱られたこと

永田 和宏

 私の師である市川康夫先生が親しかったという関係で、岡田節人、岡田善雄という両岡田先生には、理由のない親近感を抱いていた。

二度ほど三人の雑談を横で聞いていたことがあるが、まず三人三様の語り口がいかにも特徴があっておもしろい。市川先生はべたべたの京都弁であるし、節人先生は「例の・・」と言えば誰もが了解できるような岡田節。そして善雄先生は、笑顔のなかに悠々迫らぬゆったりとした語り口。「そやけどなー」とか言いながら、あの人なつっこい笑顔が語り口をいっそう魅力的にしていた。

まさに三人三様の関西弁が、別におもしろいことばかりを話しているのでもない場面に、特有のユーモアを作っている。会話がおもしろいのは、語り口ばかりではない。それぞれが会話に身を入れてしゃべっているというか、いい加減な相槌ですまそうとしていない場の雰囲気というものがあって、横で聞いている私のような若輩たちをもぐんぐん引き込んでしまうというような類のものであった。それぞれがそれぞれの話をおもしろがって聞くから、話がどんどん発展するのである。

「おもしろい人間が必ずしもいいサイエンティストとは限らないが、本当にいいサイエンティストは例外なく、人間としてもおもしろい」というのは私の信条だが、この三人の会話からはそのような勝手な思い込みが必ずしも的をはずしたものではないということを確信させる、心躍るような華やいだ雰囲気があった。

私は1988年(昭和63年)、田代裕先生が日本細胞生物学会の会長になられた時、庶務幹事を仰せつかったが、当時の細胞生物学会の最大の課題は科研費枠の獲得であった。まだ細胞生物学という分科細目がなく、その獲得に向けて、翌年には総合研究(B)「細胞生物学研究推進のための調査研究」がスタートした。

私自身はアメリカの留学から帰ったばかり、そして教授になったばかりであり、科研費の制度自体もよくわからないような状態である。学術会議とか研連とか学術審議会とか、果ては政府とか、どうにも区別のつかない摩訶不思議な世界に紛れ込んで右往左往しているというところだっただろうか。頼りない庶務幹事を抱えて田代先生は大変だったと思うが、当時この問題に主として関わっておられたのが、学会長として田代先生、学術会議研連委員長として高橋泰常先生、そして学術審議会委員として岡田善雄先生であった。この謂わばトロイカ体制が実にうまく機能したのは、三人のそれぞれに対する信頼関係であることが、傍らで見ているものにも強く感じられた。ある目的達成のためにチームを組んで活動するという場は何度も経験したが、この時ほど、成熟した信頼関係が機能しているという場に遭遇したことはあまりない。私がまだ四十歳になったばかりの若造であり、年齢が二十ほども離れた三人の巨匠を見るというスタンスであったことがバイアスをかけていたのかも知れないが、そんな三人の関係を羨ましく見ていたものだった。

田代先生と高橋先生がそれぞれの立場から陳情や要望書の作成を進め、それを岡田先生が背後からバックアップするという形であった。表面には出てこない岡田先生の存在がきわめて大きな力を持っているということは田代先生からも直接お聞きし、またその存在を力と自信にしてコトが進んでいるということは、何もわからない若造にもなんとなく実感されたことだった。

幸いにも1991年度から科研費は「時限付き分科細目」の中に「分子細胞生物学」として新設され、93年からは現在のような形の「細胞生物学」という細目になった。

念願の科研費枠獲得。たぶんその実現の喜びは、一般の会員にはうまく実感できなかったものだと思うが、「自分たちがいま実現しなければ」という使命感に突き動かされるように活動してこられたこの三人の先生方にとって、その喜びと達成感と、そしてもう一つ疲れは、傍からはうかがい知れない大きなものがあったと思われる。一緒に走っていた私の思いもほぼ同じであった。

たぶん岡田善雄先生から提案されたのだと思うが、その喜びの大きさは、お祝いに四人で飯を喰いに行こうという形でも表われた。それでは、と、以前、矢原一郎先生や市川康夫先生らと行ったことがある長浜の鴨を提案したのは私だった。長浜市内の古い鴨専門店(たぶん鳥新と言ったと思う)で、四人が揃った。めでたい、めでたいということで酒も進み、鴨も旨く、みんないい気分である。最初は一人だけ年齢層の違う人間として緊張していたが、それも次第に弛み、リラックスした実にいい時間であった。話題はやはり科研費がらみが多かっただろうか。

ところが話がどんな展開を見せていたのか、こちらも酔っていたのでよく覚えていないが、岡田先生の雲行きが怪しくなってきたのである。たぶん科研費を若いものが自分らのこととして積極的に取りに行こうとしない、誰かから与えられるのに一方的に依存しているのは怪しからん、ということになったようだった。岡田先生のあんな強い口調を聞いたのは初めて。いつものように顔が笑っておられない。若いモンが、と言われてそこで該当するのは私だけ。私の方を見ながら怒られるのである。誰のどの発言が(たぶん私のなのだろうが)岡田先生の逆鱗に触れたのかよくわからないが、とにかく困った。若い者に主体性がない、自主性と積極性が感じられないということだっただろうか。もちろん私を怒っておられるのではないことはわかるのだが、ただあっけにとられていたものだ。

さすがにしばらくして、ここはそういう場ではないと気づかれたのか、照れくさそうに矛を収められたが、その夜の思い出は、〈晴天にわかに掻き曇り〉とでも言いたい岡田先生の激しさに尽きる。しかし、これももちろん楽しい思い出。

もう一つ楽しい岡田先生の思い出を。長浜の一件から少しあと。大阪で何かの会があった。ひょっとしたら岡田先生の何かの受賞のお祝いだったかも知れない。会場についたとき、ちょうど岡田先生と出くわした。挨拶しようと近づくと、いかにも懐かしそうに、いつものように満面の笑みをたたえて迎えてくださる。そして何も言わず、頭の先から下までゆっくり視線が移動し、また上へ。そんなに懐かしがっていただくのは恐縮しつつもうれしいことに間違いはない。どんな言葉で出てくるのかと待っていると、感に堪えないとでもいうように一言。「すごい髪の毛やなあ!」

たしかに私の毛はそうとうに爆発している。ある時、リスボン市内のレストラン。道に張り出したテーブルで学生と一緒に昼食を取っていると、背後から「Kaz!」と声をかけられた。外国の女性研究者である。やあやあといいながら、どうしてわかったと訊くと、お前の髪の毛だとしゃあしゃあと答えたのには参った。私のラボの学生は、ボスの髪の毛はグローバルだと吹聴して歩いている。

岡田先生がどう思われたのかは知らない。もうちょっと手入れせんか、と思われたのかも知れない。ご自分の〈見事な〉頭と比較されたのかも知れない。しかしあの時の感に堪えないとでもいった驚きの表情は、たぶん私だけにいただいたものと思って、うれしく、今でも大事に思っているのである。


(2008-09-01)

日本細胞生物学会賛助会員

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