一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.18 July (4) 妹尾左知丸先生を偲んで

田代 裕

 日本細胞生物学会名誉会員妹尾左知丸先生は2007年6月22日、92才3ヶ月のご生涯を閉じられた。先生は90才を過ぎてからも毎日重井医学研究所に出勤されておられると聞いていただけに、あの温顔に二度と接することができないと思うと寂しくてならない。ここに先生の足跡を振り返りつつ、日本細胞生物学会の創設と発展に対する絶大な貢献について述べ、先生のお人柄を偲びたいと思う。

 先生は1940年に京都帝国大学医学部を卒業、直ちに病理学教室に入られた。学生時代に病理学教室で腎炎について研究し、天野重安先生の指導を受けておられる。しかし1941年には太平洋戦争が勃発、4人の同級・同門生は全員軍医として応召され、戦後生きて病理教室に帰還できたのは先生のみであったという。

 1946年、先生は三重県立医専(医大)教授に就任、ここで10年間にわたり赤血球の成熟過程を中心に形態学と生化学を併用した細胞生物学的研究を開始され、網赤血球の網状物質がRNAを含むことを見出しておられる。

 1955年、先生は岡山大学に転任、病理学教室を主宰され、以後1980年の定年までの25年間、赤血球の成熟、細胞のエネルギー代謝と鉄代謝、 RNaseなどの塩基性蛋白質のとり込み、血球幹細胞などについて多彩な細胞生物学的研究を行われ、顕微分光光度計の開発研究や、凍結乾燥細胞の電顕観察なども手がけておられる。特に後者の研究は1960年のJ. Biophys. Biochem. Cytol. (JBBC)に掲載され高い評価を受けた。

 さらに、1980-1991年には重井医学研究所所長として、1991年以降は名誉所長として後進の指導に当たられた。

 このような研究活動と平行して、先生は日本細胞生物学会の創設と発展に情熱を傾けられ、顕著な功績を残されたのであった。

 よく知られているように、日本細胞生物学会は1950年に勝沼勝蔵によって日本細胞化学会として創設され、1964年により適切な名称である日本細胞生物学会に改名されるという数奇な経緯を辿った。

 この1950年の創設の際に勝沼のよき協力者となったのが天野重安と妹尾左知丸であった。特に妹尾は学会の庶務一般を担当し、同時に機関誌“細胞化学(細胞生物学)シンポジウム”の編集幹事(1953-1960年)、次いで編集長(1961-1975年)を務めた。

 不幸にして1963年には勝沼勝蔵が、次いで1964年には天野重安が逝去された。しかし日本細胞化学会が大きな支障もなく発展を続けることができたのは、若手の成長もさることながら、妹尾の存在によるところが極めて大きかったと思う。

 ところで1960年になると、アメリカではロックフェラー研究所のK. R. PorterやG. E. Paladeらが中心となってアメリカ細胞生物学会(ASCB)が創設され、さらに1962年にはJBBCがJ. Cell Biol. (JCB)と改名され、ASCBの機関誌となったというショッキングなニュースが飛び込んできた。上述の通り、1950年に勝沼が意図した学会は正に細胞生物学会そのものであり、この事実を妹尾は熟知していた。従って直良博人ら若手会員を中心に日本細胞生物学会への改名を望む声が出た時に妹尾はこの改名を積極的に支持した。

 1964年度の大会会長を務めた石川大刀雄は評議員会でこの議題を提案し、改名に成功した。妹尾自身も『細胞化学という殻を脱して細胞生命の本質を多角的に探求しようという会にふさわしい名前を得たことを喜びたい』と述べている。

 1964年以降、日本細胞生物学会は会則を制定し、急速に近代化を計り、1975年には年刊の和文誌“細胞生物学シンポジウム”を廃刊し、英文誌 “Cell Struct. Funct. (CSF)”を発刊することになった。さらに学会会長、庶務幹事、編集委員長は選挙によって選ばれることとなった。その結果、1978年には日本細胞生物学会の事務局ならびに編集室は岡山大学病理学教室から現在の京都の中西印刷に移された。

 妹尾先生は1970-1973年の4年間公選による日本細胞生物学会の初代会長に就任された。さらに1950年から30年近くにわたり庶務幹事と編集幹事・編集長を務め、学会の発展のために尽力された。我々は先生のこの極めて長期間に亘る献身的な貢献を決して忘れてはならないと思う。

 先生は1984年に開催された第3回国際細胞生物学会議(東京)の会長を務められた。この学会には国外44ヶ国〜1000人と国内〜1500人、計 2500人の参加者があり、極めて盛会であった。先生はまた神谷宣郎らと協力し、細胞生物学研連の設置にも尽力された。

 次に先生と私の細胞生物学会を介しての交流についてふれておきたい。第9回細胞化学シンポジウム(1956年)において私と小倉光夫は粗面小胞体を RNaseで処理するとPalade粒子が特異的に消失するので、粗面小胞体はRNA-蛋白粒子(Palade粒子)とリポ蛋白質膜の複合体であるいと推論した。妹尾先生はこの研究に大きな関心を示され、岡山大学の妹尾研で話をする機会を与え、激励して下さった。この研究が縁となって私は1961年にロックフェラー大学のPalade研に留学、生まれたばかりの細胞生物学を学び帰国、1964年に関西医大教授に就任した。以後、先生と日本細胞生物学会、その評議員会、運営委員会、編集委員会などでお目にかかる機会が急増した。

 先生は広い視野と該博な知識を持たれ、常に的確な判断を下された。また温厚で協調性があり、何時も温顔をもって人と接しられた。多学際的科学であり、個性の強い多様な研究者の集団である日本細胞生物学会を束ねてこられたのは、先生の協調性と細胞生物学への強い使命感によることろが極めて大きかったと思う。ここに先生のお人柄と立派なご業績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。


(2007-08-13)

日本細胞生物学会賛助会員

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