一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.7 May (1) 科学の寿命

松崎 文雄 (国立精神神経センター,神経研究所)

 2000年も前の民族の願いから出来た国とはどんなところか。好奇心からイスラエルを訪れた。ユダヤ王国がローマに征服されたのは紀元前一世紀のことである。その後,2世紀の間に幾度か反乱を試みたものの,ついに独立を回復できず,この地はイスラム教徒やヨーロッパが支配し続けた。当初,ユダヤ人はエルサレムに足を踏み入れることも禁じられ,世界各地に散っていった。普通なら,他の多くの滅亡した民族のように歴史のなかに埋もれてしまうところである。ところが,彼等は違った。世界に離散しながらも,そのアイデンティティを保ち続けたユダヤ人は,20世紀もの後,再び,自分たちの国を造ってしまったのである。

 その国,イスラエルに対する私の印象は,一言で言うと,我々の住む世界とは違う文明である。そこには,あらゆる対立が満ちている。自然はエルサレムを境に,緑豊かな西部と東のユダヤ砂漠が鋭いコントラストをつくる。蜜の溢れる豊かな土地は砂漠に隣り合い,連なる岩山の果てに魚も住まない死海が横たわる。もちろん,人間社会の葛藤は激しく根深い。支配民族であるユダヤ人と征服されたパレスチナ人の対立は深刻である。パレスチナ人にしてみれば,2000年前には他人の土地だったという理由で長年住んだ土地から追い出されたのであるから,当然といえば当然。この国の成り立ちそのものに原因がある。町中,銃を携帯する兵士を目にする。バスの座席,食堂のテーブルに無造作に機関銃が置かれている。私がエルサレムに入った次の日にも爆弾テロが起きた。緊張が日常の事となり,人々は,いわば,バナナの皮を剥いだようなむき出しの印象を与える。「記憶にございません」とは決して言わない確信犯のはっきりとした意志がどの顔にも読み取れる。

 なにが,このような国を作らせるのだろう。模範的な答は,当然,ユダヤ人の信じる宗教,ユダヤ教である。この強力な一神教は信仰のみならず日々の生活を事細かに律する。巧妙に構成された立法を信じる人々は神に選ばれたのであり,神と契約を交わしているのである。2000年もの間,人間を一つのことに執着させることに成功したこの宗教は,さらにもうひとつの重要な一神教まで生みだしている。わたしは死海のほとりの岩山にあるクムラン遺跡に立ち,理解できたような気がした。そこは死海文書を書き残したユダヤ教の一派の本拠地で,一説には原始キリスト教の起源ではないかとも言われている。豊かな土地にすぐ隣り合うこの砂漠には,沢山の色はない。岩山の茶色,死海の暗い水色。苛酷で荘厳な自然は人の力の及ばない存在を感じさせる。これが一神教の生みの親なのではないか。

 2000年後の文明は果たしてどうなっているのか。その頃,私達の生物学はどの様な意味を持ち続けているだろう。ユダヤ教は,少なくともユダヤ人にとって,2000年間真理であった。勿論,20世紀の生物学の中には,単なる事実としてではなく,真理として生き残るものはあろう。それでは,私のscienceは果たしてどうであろう?

 おそらく……,まあいいか。embryoの固定でも始めよう。


(1996-05-01)

日本細胞生物学会賛助会員

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