一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.6 November (1) 学習と創造

米田 悦啓 (大阪大学医学部解剖学第3講座)

 子供の成長を観ているのは,とても楽しい。親と他人の区別ができるようになり,“バイバイ”の仕草を真似るようになる。叱ると泣き、あやすと笑う。「マンマ」と言って食べ物を要求する。自分の思い通りにいかなくなると怒るようになるのも大きな進歩の1つだ。歩きだしてしばらくすると,靴を自分で履こうとするようになるが,最初のうち,必ず左右を逆に履くのには笑ってしまう。利き手が左と思われる子供は必ず左で物をつかみにいこうとするけれども,子供の世界には,右や左と言った概念が全く無いようだ。従って,単純なようで,「右」と「左」をはっきりと区別できるようになるのは意外と遅い。やがて,“あ”が読めるようになり,“ろ”と“る”の区別ができるようになる。ジグソーパズルにしろ,かるたにしろ,子供は一旦興味を抱いたものには滅法強い。親が負けるようになるのに長い日時を要しない。そのうち“1”が書け,“い”や“○”が書けるようになる。数字の方が先に書けるようになるのはいろいろ理由がありそうだが,“2”や“5” をあたかも鏡に映したような逆向きに書いてしまうのは,神経回路の発達上,何か理由があるのだろうか。

 ところで,これらのことは,親が多かれ少なかれ,本を買ってやったりしてきっかけを与え,子供が興味を持った度合いによってどんどん憶え,学習していく類のものである。一方,子供は全く別の能力を持っている。紙と鉛筆があれば,何かを書こうとする。これには手本は全くいらない。自由にかつ大胆に描いていく。もちろん,最初のうちは何を描いているか,本人に聞いてみないと描かれた物からは想像もできない。近くに行って,「お父さんの顔を描いて」と頼めば,もちろん喜んで描いてくれる。けれど,最初に描いた顔なるものは人間のそれではない。そのうち,これも親が教える訳ではないのだけれども,ちゃんと“目”がつき,“口”らしきものが顔の真ん中辺りにできてくる。そして,その子供だけが描ける,本には載っていない「お父さんの顔」ができあがっていく。

 研究者が優れた研究を進めていく上でも,子供のころから人間がちゃんと持っているこれらの大きな2つの能力が必要だ。現在の研究者は余りに一人で修得すべきテクニックが多すぎ,知っておかないといけない情報量が多すぎる。けれども,それらを知っておかないと,いわゆる“良いジャーナル”には論文が出せないし,世の中でなかなか一人前と認めてもらえない。従って,現在の研究者の多くは,「学習する」能力ばかりを磨き,また,麿かそうと教育する。その結果,確かに学習したものを上手に使ってみんなが理解し得るように表現する能力が備わり,世の中の要求に沿って“上手に”書かれた物の数は増えるけれども,よく見ると,みんな同じに見えてくる。もちろん,自ら学習しようとしない研究者は研究者に値しないが,子供から,その子供だけが持つ“「お父さんの顔」を自由に描く能力”を奪ってしまうことが全くばかげているように,研究者に必要な“もうひとつの能力”を引き出し,育てる努力をしないのは,研究から最も楽しい部分を奪うことに等しい。研究の最大の楽しみは,生涯を通じて得た“学習の量の多さ”ではない。子供がいかにも楽しそうに自分の「お父さんの顔」を完成させていくように,いつも真っ白なキャンバスに向かって,自由に楽しみながら,自分らしく自分の「何か」を描こうとするスタンスで研究を進めたいものだ。


(1995-11-01)

日本細胞生物学会賛助会員

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