一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.No.62 December (1) 研究の質的向上をめざそう

松影 昭夫 (愛知がんセンター研・生物)

 近ごろ研究の質ということについて考えさせられる機会が多い。研究者というのは一つのプロフェッショナルな職業であるとの意見に、異議を唱える人は殆どいないと思うが、改めてプロとして通用する基準はと問われるとなかなか答えにくい。力士やプロ野球の選手は勝率や打率といった数字に現れる客観的な成果に基づいて収入だけでなく、プロとしてのポジションまでも決定される。音楽の演奏家などはチケットを買って聞きにくる聴衆が一定以上いるか否かでおのずと淘汰される。その他のプロフェッショナルな職業についても同様で、その持てる技(わざ)を他人が評価して金を出し続けてくれないかぎりプロとしてはやっていけない。冒頭に言った研究の質が気になるとは、自分自身の研究がプロに値するかと自問していることを意味する。

  日本では一旦大学の教官や公的研究機関の研究者になれば、かなりの自由もあり、一定の研究費や地位も保証されている。しかも、研究の質的評価を受ける必要さえもほとんどない。しかし、考え方によっては、この自由や保証は恐ろしいほどの重荷である。特に、生物科学においては自由は落し穴となる場合が多い。生命現象は多様であり、生体は無数の物質をふくみ、研究対象は無限といえる。それ故、多くの研究者はある生命現象や一つの生体物質や遺伝子に取りついてしまうと、たとえきちんとした研究戦略がなくても、お山の大将になれるし、またその自由を他人も認めてしまっているのではないだろうか。一方、例えば、細胞生物学においては電顕や組織化学の技法、分子生物学においては遺伝子操作法、生化学では酵素精製法やタンパク質化学の技法などは修得しているが、研究対象は何でもよいといった姿勢の人も多い。はなはだしいのは、このような技法をもつだけで他人が材料を持ち込むのを待っているかのようなひとも見受けることである。このような世界では研究の質を問題にしにくい。このことについてへたに批判がましいことをいうと、学問の自由のもとに拒否され、煙たがられてしまう。研究者には、学問の対象を選ぶ自由はあるが、その質的向上を求められることからのがれる自由はないとおもうのだが・・。

  近年、産学共同が叫ばれているものの、民間企業からの研究資金が外国の大学や研究磯関へ回ってしまい、日本の基礎研究は無視されていると言った話をよく耳にする。また、政府の科学政策は一方的押し付けが強く、研究者の自主的な総意に基づいた研究体制の整備や研究費の配分がなされていないとの声も聞く。しかし、日本の政財界の関心が応用面にのみ向けられ、基礎研究には興味がないといった未成熟なものとは思われない。むしろ、これらは日本の研究者にむけられた不信感の現れであろう。研究者が、もっと研究の質的向上に真剣に取り組み、プロの名に値する研究者になるという自覚を持ち、自らを律することのほうが重要であると思われる。


(1989-12-01)

日本細胞生物学会賛助会員

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