一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.5 June (1) 涙と笑いの生物学

米村重信 (岡崎国立共同研詭機構生理学研究所)

 ひとつの研究テーマに専念し,まっしぐらに実験を重ねていくことは,研究者としてあるべき姿と言える。しかし,生物の不思議全般に対しても常に興味を持ち続けていたいもの。そういうわけで,今回は笑うことと泣くこととについて考えたい。表情だけの笑いはともかくとして,アハハハハの笑いの場合,腹筋の周期的な収縮があるはずだ。われわれは,できのよい冗談に対しては,アハハのハを奮発して9回いってやろうとか,できの悪い冗談に対して,3回でたくさんだとか考えて笑っているのではないから,声を伴う笑いは,少なくとも純粋な随意運動ではなく,多分に反射を含んでいるはずだ。ならば,そこをチクリと刺激すれば,思わず笑ってしまうという神経,笑神経なるものが存在するのではないか。一方,泣くことは,生まれた時からできるのだし,やはり,反射の要素が強いだろう。ならば泣神経だ。そして,目が乾くわけでも痛いわけでもないのに,流れでる涙とは一体何なのか。このような疑問が湧くのも医学知識がないためかもしれぬ。身近な青年医師に尋ねてみたが,わからないらしいので,国家試験に出るほどよくわかっていることがらではないようだ。白土三平の「サスケ」に,山中,道に迷った尼僧らが敢えてワライタケを食らって,大笑いすることにより遭難の不安を紛らわしてついに人里に至る話があり,頼もしい尼僧の知恵に関心したことを思いだし,ワライタケのことも聞いたがこれまた有名ではないらしい。生理学研究所は人間の脳の高次機能研究のメッカのひとつなので,専門の教授にうかがってみた。結論からいうと,笑ったり泣いたりするとき,脳の中で何が起こるのかは,ほとんどわかっていないらしい。笑神経や泣神経の存在もまたしかりである。どちらの運動もヒト特有であるため,実験も確かに難しいだろう。ただ泣くも笑うも反射の要素を含むことは妥当だという。笑神経,泣神経発見の望みは絶たれてはいないようだ。キルケゴールの「笑いの哲学」は読まれましたか,と聞かれた。無論読んでいない。しかしこっちだって白土三平だ。ワライタケは笑神経に作用するのではと食い下がったが,先生,知らないらしい。本当に笑っているのではなく,筋肉が弛緩して笑っているように見えるのではといわれた。あとでキノコの図鑑を開くと,神経の異常興奮を起こし,狂騒状態を呈するとあるから,筋肉弛緩ではないにしろ,笑いにのみ効いているのでもなさそうだ。話はさらに続くのだが,そろそろ本業に戻るのも重要なことだ。


(1994-06-01)

日本細胞生物学会賛助会員

バナー広告