一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.4 March (1) パターン化された研究からの脱出

坂倉 照妤 (理化学研究所・真核生物研究室)

  生物学は,生き物の形態を記載し,行動を観察し,それら表現の中から一般原則を抽出し他分野との対比から社会の調和に貢献する,そういう学問である。そして自分の仮説を説明することが自然科学研究であり,そのために色々な実験を行なう。ところが最近の生物学研究は,分子を使った代理戦争になっている。

  私は,40年近くも前であるが,大学進学で生物系を選んでいる。にも拘わらず,受験科目は物理,化学であった。これは当時の一般的な傾向であり,その理由は私なりに,生物学の持つ女々しさが若者によって嫌われたと解釈していた。多分今でもこの風潮は大きく変わっていないと思う。若者は「論理」を好む。物理学,数学,工学,化学,は論理の学問であるが,生物学は非論理,むしろ情緒的な面を持つ学問である。生物学に対するある種の蔑視があり,選んだ後にも情緒的な学問を選んだことに対する苛立ちの気持ちがある。

  しかし今,生物学は物理学,工学,化学に占領されつつあるように思えてならない。それは「細胞生物学」が「細胞遺伝学」,「細胞工学」及び「細胞化学」に変身しつつあるからである。しかもそれは大変魅力的且つ容易である。私が最近の生物学研究を分子による代理戦争と危惧するのはこのためであり,困ったことに分子は既に一人歩きを始めているのである。

  最近,多くの生物学研究がパターン化されている。ある現象を見つけ,それに関係する分子(モノクローナル抗体,cDNAも含む)をとり,構造を決め,生体内での分布を調べ,分子の一部を合成して機能解析を行ない,蛋白質の場合は遺伝子を過剰発現或いは欠損させた細胞とか動物を作ってその機能を見る。一つの分子については,これでワンセットの研究となり,それを全部うまくこなせるか否かで,研究室の評価が決まる。つまり分子は,この範囲内で一人歩きをするようになる。或生物現象を見つけるという出発点が非常に重要であるにも拘わらず,ここに払われる努力は次第に小さくなり,時には的確でない現象,ひどい時には生物現象と結びついていない出発点から始まることもある。本当にこれで良いのだろうか?しかも多くの研究者がこのことを自覚しているからなお始末が悪い。研究というより作業に近い,このパターン化されたワンセット研究から脱皮する方法を考えなければならない。情報のゴミの山に埋もれてしまわない内に。

  昨年12月24日の朝日新聞天声人語に「予定調和」という言葉があった。紹介では,万物の構成単子は「モナド」と呼ばれ,これ自体はそれぞれ独立して相互に無縁であるが,「神」によって予め相互作用して調和を生みだすように定められているという哲学である。ここで「モナド」を「遺伝子」に置き換えたら,今の生物学研究の底を流れるモヤモヤしたものが理解できるように思えるが,それならば「神」は何を示すのだろうか。この哲学では「神」を持ち出すことによって,一挙に論理付けへの解決を図っている。しかし生物学では,それを「神」のせいにするわけには行かない。「予定調和」は,現在芸術の分野で使われている言葉であるらしいが,生物学にもピッタリの表現である。そしてこの「神」に当たる,生体機能の調和を図るメカニズムの解析は生物学研究の大きな課題になる。生物学ワンセット研究から脱出する道はこの辺にあると思える。


(1993-03-01)

日本細胞生物学会賛助会員

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