一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.17 January (5) 月田さんの死に

永田 和宏

 一昨年の秋、大阪大学の高井義美さんから電話があり、「月ちゃんが・・」と話が始まった。
 月田承一郎さんがすい臓癌であることがわかったこと、きわめてむずかしい状態であることなど、高井さん一流の明るい調子で話されたが、高井さん自身が大きなショックを受けていること、無念の思いの強いことは、電話越しにでも私にはよくわかった。何より、すぐ以前に恩師の市川康夫先生を同じすい臓癌で失っていた私には、どのような経過をとるものか、身に沁みてわかっていたと言ってもいい。高井さんからは固く口止めをされたが、もとより誰に言うべきことでもなく、その後長いあいだ、私から誰に言うということはなかった。

 市川さんが亡くなったとき、癌センター名誉総長の杉村隆先生から「我々が唯一手のほどこしようがない」癌がすい臓癌で、その病で市川先生を失うのは痛恨の極みだという趣旨の弔電をいただいたが、またかという思いも私にはあった。阪大の垣内史朗先生が、そして東京薬大の水島昭二先生がやはりすい臓癌であった。思えば細胞生物学会でも、阪大の角永武夫先生、内田驍先生を初めとして現職で癌のために世を去られた方はなんと多いことだろう。誰も、仕事が軌道に乗り、世界から認められ、さあ、これからその真の成果をという時であった。

 ブルガリアの思想家にエリアス・カネッティという人がいるが、彼の言葉に「重要なのは、人がその最期にあたって何をまだ計画しているのかということだ。それが、彼の死にどれほどの不公正さがあるかの尺度になる。」というものがあって印象に残っている。月田さんの死は、<不公正>である。アンフェアーではないかと思う。カネッティの言うように、月田さんにはこれからやりたいこと、やるべきこと、そしてみんなが彼ならやるだろうと期待していたことがいっぱいあるからだ。どんな死も、どれ一つとして不条理でないものはないのかもしれない。しかし、月田さんの死は、あるいはそれ以前に、月田さんがすい臓癌という癌を患ったことは、まことに不条理きわまりないと感じたことだった。

 月田さんとは彼がまだ東大にいた頃から知っていた。当時私は西も東もわからない状態で、non-muscle cellsのアクチンをやっていた。その関係で、馬渕一誠さんたちを初めとする、細胞運動のグループとはよく一緒になった。当時の細胞生物学会では、細胞骨格・細胞運動のグループが若手のなかでは突出して元気が良かった。数も多かったし、何より従来の筋肉という日本の土壌の上に、新たに細胞内の骨格、運動系が加わった形で、世界的にもけっこう華々しい仕事が出ていた。 そのグループには、馬渕さんや月田さんを初めとする、まだ若手でしかもどこかカリスマ性のある人達が集まっていて、学会の夜には大挙していろんな安い飲み屋に繰りだすのが常だった。その頃から、月田さんはある種の大人(たいじん)の風格があって、それは体形からも来ていたのだと思うが、彼のまわりには常に華やぎがあり、人が多く集まっていた。

 月田さんはその後東京都臨床研に移り、今や誰もが知っている細胞接着装置の研究が花開いた。初めの頃に、肝臓からのbile canaliculiの単離とそこにenrichされたタンパク質の同定の話を聞いたときには、改めて彼が解剖出身なのだと強く思ったが、体の中の形作りを何度も繰り返し見てきたものでなければなかなかできない発想だと思う。しかし、それにもまして、ここを突き進めれば、細胞接着に関わるすべての装置のエッセンスがあるはずだという強い信念に、圧倒される気がしたものだ。 月田さんが最後までこだわったのは、たぶん見える細胞生物学ということだったのではないだろうか。見えると言っても、いまはやりのイメージングだけではなく、形という具体を分子の構造・機能として理解する、そこに喜びがあったのだろうと思う。月田さんの仕事のインパクトの大きさについては改めて私などが述べなくても、誰もがよく知っていることである。

 月田さんを京大へ迎えようというとき、私にも少し問い合わせがあったりしたが、もちろん異存のあろうはずがない。月田さんをはじめ、西田栄介さん、米原伸さんと、京大に細胞生物学会のメンバーが増えていくのがうれしかった。本庶佑先生が分子生物学会の年会を主宰されたときには、月田さんがお隣の部屋ということでプログラム委員長を委嘱され、その他委員会メンバーとして集められたのは、西田、米原さんと私。なんのことはない、これじゃあ、分子生物学会のプログラム委員会じゃなくて、細胞生物学会だよ、とみんなで笑いあったことだった。

 月田さんとはいろんな場で一緒になることが多かったが、彼がいつも自然体であったことに強い印象を持っている。いつも何かに冗談を言っているという風だったが、誰と接するときも、その態度が実に自然なのである。それが彼の自信から来ていることは間違いないが、自信を持って、それが傲慢になったり、自信がなくて卑屈になったりすることの多い人間関係の中で、彼のまわりにはいつもある種爽やかな風が吹いていた気がする。

 高井さんが早くに電話をくれたのは、今年、つまり2006年の細胞生物学会の大会長を月田さんにお願いしていたことによる。大会自体は、月田さんの病気がわかる以前に、IUBMBと合同しようと月田さんから提案があり、運営委員会にかけて了承されていたのだったが、月田大会長の学会を来年以降に振り替えでやるということになっていた。その迷惑を考えて、私にだけは先に伝えて欲しいと、高井さんに依頼されたということだった。たまたまIUBMBと重なったことで細胞生物学会独自の大会を断念したのだったが、まさかそれがこんな形で月田さんの病気と重なるとは、気の滅入るような符合であった。

 早くに月田さんの病気を知りながら、私は長いあいだお見舞いもしないで黙っていた。私の女房に癌が見つかったとき、むやみに他人から見舞いを言われるのが、どうにも辛く、そして安易な見舞いの言葉に腹立たしくもあったことが大きかった。病気を知っても、心底心配できるのは、家族とその周辺、友人のなかでも本当に限られた数の人間だけであろう。言葉だけの見舞いや、むやみに病状を尋ねるよりは、そっとしておくほうが、本人や家族にとってどれほどありがたいかしれないものである。 一度だけ、月田さんに見舞いのメールを出したことがあった。半年ほども経ってからのことである。月田さんからは、「ご丁寧に有り難うございました。何とか薬と闘っている状態です。
 突然の全く予期せぬことで、まだ自分でも整理はついていないのですが、家族や友人の有り難さが身に滲みています。
 分の悪い戦いであることはよく分かっていますが、家庭だけなく研究室のことも必死でフォローしてくれている家内や、びっくりするほど大人になって優しくしてくれる息子(この4月で高2です)や、自分の仕事より優先して必死に最新の治療法を調べてアレンジしてくれる友人などに支えられて生きている感じです。このような人々に囲まれて、これまでの自分の至らなさを逆に感じてます。」と始まる返事が返ってきた。
 研究室の仲間や、奥様である月田早智子さんへの思い、学会への思いなどのあと、
「今は、やはり一番の気晴らしは、研究のことを考えることなので、学生さんのデータを眺めながら、一つでもちゃんとした論文を残してあげようと思いつつ暮らしています。すべてのduty から解放していただいて、研究のことだけを考えていると、何だかとても懐かしい感じがするのは不思議なものです。」と結ばれていた。まさにその言葉通り、亡くなる一週間前まで研究室に行って、後輩たちの研究の面倒を見ていたという。見事な人生であったと思う。

合掌。


(2006-01-31)

日本細胞生物学会賛助会員