一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.19 June,July & August (1) 人間性を大切にされた岡田善雄先生

井川 洋二

1973年春、筆者は米国国立癌研究所(NCI)での2年余の研究生活を終え、癌研究所に戻って程なく、岩波の「科学」に「マウスFriend白血病細胞の分化の分子機構」の総説を寄稿した。それまで専ら、魚類や両生類の受精卵を用いて発生、分化のメカニズムを追っていたところへ、哺乳類のクローン細胞でヘモグロビンの発現の様相など分化の分子機構が解析できるようになった事が評価され、岡田善雄先生のご推薦で阪大微研の年末の“Lecturer of the Year”に招かれた。

 哺乳類の培養細胞が、当時分子生物学の対象の中心であった細菌並みに扱えるというので、初報を米国科学アカデミー誌に載せた時は共同研究の申し込みでラボの電話は鳴りっぱなしであった。

岡田善雄先生にはこの事がご縁でいろんな機会にご一緒させて頂いた。文部省がん特別研究では腫瘍ウイルス関係班の世話人を2人でさせて頂いた。細胞工学」という雑誌を秀潤社が創刊するというのでこの企画にも一緒に加わった。日本語での生命科学雑誌には余り乗り気ではなかったが研究が細分化した今日では、専門分野を異にした研究者には極めて便利な本となっている。創刊号の座談会で岡田先生と合意した科学の内容は落とさないというポリシーをこれまで貫いて居られるのには感心している。「細胞工学」というタイトルには若干違和感があったが、今世界を騒がせている遺伝子導入で樹立したiPS細胞を見るとき正に先見性があったと言えよう。

岡田善雄先生は、細かい穴埋め的研究より、研究者の人間性に裏打ちされた、将来への広がり」を予感させる研究がお好きなようで、阪大微研の数多くの個性に会わせて下さった。当時、超高圧電子顕微鏡の開発に取り組んで居られた深井孝之助先生もそのお一人である。私も石を遠くに投げて岸辺に寄せて来るような科学が好きで、時流に乗る端近な研究はあまり好まなかった。阪大微研の川俣先生の肝いりで始まったげっ歯類の内在性ウイルスの研究班で知った森脇和郎先生の野生マウスの収集、維持には大いに協力した。マウス由来の細胞系の樹立は容易であったが、同じげっ歯類でもスナネズミ等の細胞は通常の培養液では、増やしにくいことも経験した。

その後、筆者は癌研究所(上池袋)から理化学研究所に移り、遺伝子研究を中心とした理化学研究所の分所を筑波の谷田部に作るプランを練っていた時も岡田先生からいろいろなアドヴァイスを頂いた。“日本では一度失敗すると後発組は格段と苦労する。絶対に成功しなければいかん。“と何度も言われたのが心に残る。理化学研究所筑波ライフサイエンスセンターからは、石井俊輔君、相澤慎一君、佐方功幸君、野田亮君、中内啓光君、武田洋幸君、相賀由美子君、八木健君等優れた個性が生まれたが、岡田先生に影響された自由な研究環境が大きく貢献したと思っている。個性を伸ばすには、人間性を大切にする放牧的研究環境こそが鍵だと今でも確信じている。岡田先生との交流が筆者のリーダーとしての行き方に大きく関わった事は間違いない。

研究所の立ち上げといえば、以前、久留米大学に分子細胞研究所を設置した時にも岡田善雄先生と共に企画に参加した事がある。当時同大学の医学部長だった生理の纐纈教三先生に医学部から独立させる事の了承を得た事がある。純粋に医学生物学の新しい分野に邁進する人材で構成することを邪魔されたくなかったからである。医学部のご都合主義的人事の場と化すことの愚を強調した。一見とつとつと話される岡田先生もこのような時には一歩も引かない意志の強固さを発揮された。その上で岡田研からも最適の人物を送るから井川研からもそうしてくれと約束させられた。こうして、佐方功幸君と目加田英輔君が初代のスタッフとして活躍することになった。

岡田先生はラボの運営にもユニークな意見を持っておられた。大型機器の導入にも力を入れられ、その理由を尋ねると、機器がないから出来なか  ったと研究員に言わせたくないからな等と答えられていた。研究リーダーとしての心得を教えてくれた岡田先生とも、本庶佑さんの退職パーティーでお会いしたのが最後になった。話したい事も山ほどあったのだが。


(2008-09-01)

日本細胞生物学会賛助会員