一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.14 June (1) 民間企業における科学研究とは?

矢原 一郎 (㈱医学生物学研究所伊那研究所)

 昨年のノーベル賞で一番感動したのは,物理学賞にかがやいた小柴昌俊さんの「私の研究は,百年たってもなにかの役に立っことはありません」という貴い言葉である。新聞記者は科学的発見をした科学者に対し,「その発見はなんの役に立つのですか」と質問するのが常である。新聞記者だけではない。私どもが日頃かかわる細胞生物学や分子生物学の研究でも,それがある疾病にかかわると,Natureなどのいわゆるトップジャーナルでも優先されるのは周知のことである(また論文の著者白身もcovering letterでそのことを強調する)。こうした,「科学は役に立つ」ものであるという,科学の本質から離れた考えが世の中に蔓延している。これに対し,純粋科学すなわち<役に立たない科学>こそ無条件に科学の最高位をしめる,というのが私の信念である。もちろん,私は<役に立つ科学>を否定しているのではないが,<役に立たない科学>(役に立つかどうかではなく,その知的価値のみによって評価される)は<役に立つ科学>(科学の知的体系への位置付けとはかかわりなく,効用によって評価される)よりも,上位にあると思うのである。科学の歴史もこの見方を裏付けている。C.レヴィ・ストロースは,北ローデシア,シベリヤ,北米大陸などの諸民族のフィールドワークから、それらの人々がもつ,動植物に関する想像を絶する詳細な知識とその利用について,「かような知識の第一の目的は実用性ではないのである。それらは,物的欲求を充足させるに先立って,もしくは物的欲求を充足させるものではなくて,知的要求に答えるものなのである」(「野生の思考」)と述べている

 その一方で,日本学術会議会長の吉川弘之さんが,最近の著書「科学者の新しい役割」において,「社会において,少なくとも物質的な豊かさや安全を作り出している主役は,私的な企業であり,その作動なしには富は生み出せない。学術研究がいくら進んでも,それだけでは地球上の貧困を解消することはできず,また環境劣化を解消できない。産業は,人々の意図の実現装置である」と書いているのを読むと,当然のことながら,まことに正しい指摘だと思う。同じように,P.ドラッカーは,世の中を変えたのは,「蒸気機関の発明」ではなくそれから50年たった「鉄道の発明」であり,またコンピュータの発明ではなく40年後のインターネットの普及であった,と述べている(「ネクスト・ソサエティ」)。これは,「純粋科学」と「実用科学」の関係を見事に述べたものである。しかし,吉川さんもドラッカー氏も否定しないだろうが,「わたしはなにものか?」という哲学的な問いに答えを与えられるのは,「純粋科学」(吉川さんはこれを第一種基礎研究として第一義的に認めている)だけである。ちょうど50周年となるDNA2重らせん構造の発見とダーウィンの進化論は,「わたしはなにのものか?」に対する答え(の一部)を与えた。どんな哲学も宗教も,この答えから目をそむけることはできない

 さて,私は民間企業に籍を置くようになって,やがて3年になるが,「実用科学」の場と考えられている企業において,「純粋科学」にいかに寄与できるかを考えている。一般には馬鹿げた考えと思われるかもしれないが,上に言及したC.レヴィ・ストロースの原住民族の研究などを見てみると,「純粋科学」と「実用科学」は緊密に寄り添っており(この密接な関係は,「基礎科学」と「応用科学」と区分すると見えてこない。この点は非常に大切なところだが,ここでは論じない),私の意図もあながち無謀とは言えないであろう。例えば,病は悪気によって起こり,呪いによって治すしかないと思われていた時代に,病は人から人へうつるという考えを着想し,隔離することによって蔓延を防いだことなどは,既に病の原因となる病原体という概念を先取りしていた。また,よく知られているように,メンデルは,農業(園芸)における趣味的観察から,遺伝子という概念を抽出したのである。これらは実用という価値基準の世界の中にいながら,その枠を乗り越えて,現象を支配する法則をつかみ取った,つまり<純粋科学>としての成果を見事にあげた例である

 民間企業は(資本主義社会においても)単なる利潤追求の組織ではなく,人間が生存するための一つの社会的装置となっている。そして,そこでこそ,<純粋科学>は<実用科学>に寄り添っているような気がする。したがって,国立大学が独立行政法人化しても,本来の社会的基盤がないので,そう簡単に民間企業的なはたらきをできるわけはない。この民間企業でできて,大学でできないことに,私はこれからのそう長くはない研究生活をかけようと考えている


(2003-06-01)

日本細胞生物学会賛助会員