一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.26 October - December (1) 性善説と性悪説と教育

大場雄介 (北海道大学大学院医学研究科)

昨今、件の研究不正の話題が上がるにつけ、「科学者の世界は性善説で成り立っている」というたぐいの言葉をしばしば耳にする。もちろん研究に関することは他人ごとではないが、定期試験を確たる理由もなく無断で欠席する学部学生(ちなみに悪びれることなく、再試験を受けるのは当然の権利だと主張してくる。事前にこちらが試験を欠席したら再試験を受けさせないとは言っていないというのが論拠)や、他人の文章を剽窃して平気な顔で私に持ってくる学生を目の当たりにし、もはや性善説では世の中が成り立たないと実感し始めている。私の所属する部局においてもコピーペーストを探すソフトが導入された。他の研究組織でも様々対応に追われているケースを耳にする。

この性善説という言葉、恥ずかしながら私は全く勘違いしていた。すなわち、「人の本性は善であり、放っておいても悪を行わない」ので人を信じるべきだという、ある種楽天主義的な意味だと思っていた。しかし、性善説とはそもそもどういうことなのだろうとふと気になって調べてみたところ、どうも私の用い方は誤りだったようだ。孟子(や朱子)がいわんとしたことはかなり異なり、「人の性は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要」であると説いている。つまりは「教育が重要」ということらしい。

以下が今回改めて学んだことである(ご存知の方はお聞き捨てください)。孟子(B.C. 372?~289)の「性善説」とは、あらゆる人に「善の兆し」が先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、惻隠(憐れみの心)、羞悪(不正を恥じる心)、辞譲(謙譲の心)、是非(善悪を分別する心)であり、これを四端の心という(「端」とは兆し、はしり、萌芽の意)。修練により四端は「仁・義・礼・智」という徳として具現化し、聖人・君子たることができる。善の兆しとは善となるための可能性であり、後天的努力で善を勝ち得ることができるというものである。では悪はどこから生じるものかというと、悪は人の外に存在するものであり、外からの影響を受けることにより、心に宿る善の兆しが曇らされるからだという。すなわち善は人の心に内在し、悪は外部環境からの影響によるものということである。

一方、性善説の対義語である性悪説も実は結果として言わんとすることは以外にも共通している。荀子(B.C. 313?~238?)は孟子の性善説を批判し、「性」を欲望も含んだものとして捉え、自然そのままの人の本性は「悪」であるとした。そして、外在する「礼」すなわち学修によって人を矯正・感化する必要があるのだと説いた。「性」の捉え方は真逆であるものの、孟子、荀子ともに人を道徳的に陶冶しようとする姿勢、は共通のものであるのである。

このように、性善説と性悪説は一見反対の言葉のように捉えられがちだが、共通に教育の重要性を説いている。私が接する学生は大学生や大学院生であるので、これまでの過ごした時間や受けた教育により、今ある表現形が性善と性悪のどちらから派生したかを個別に判断するのは容易ではない。しかし何となく感じることとしては、以前よりは表現形が「悪」の方向にシフトしてしまっているのではないか?ということである。「最近の若者は・・・」ということではあるが、多分これは我々も10~20年前には上の世代の先輩方にそう言われていたに違いない。問題はそうした時代の移り変わりによるもので済まされる範囲のものなのか否か、ということであろう。

この様に書くと現在の教育システムを批判している様にとれるかもしれないが、決してそうではない。むしろ、その重要な教育に携わっている自分はどうか?「私は若い学生の教育を徳が開花するように行えるのか?」と自問したい。

正直答えは見つからない。できればみんな根は悪くないので、時間をかければいつか良くなるはず、と信じて「性善説」にもとづきやっていきたいところではあるが、甲斐性や堪え性のない私にどこまでできるか・・・教育は忍耐である。


(2015-10-19)

日本細胞生物学会賛助会員