一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

2016-11-02 オートファジー研究のPAS―1995年細胞生物学会シンポジウム

上野隆 (順天堂大学大学院医学研究科研究基盤センター)

「ついにやったね!ノーベル賞」「涙が出てきます!」「すごい。単独受賞だ!大隅さん」10月3日のノーベル生理学賞・医学賞発表。ライブ中継がフリーズするというアクシデントに見舞われ、どうなったどうなったとやきもきさせられた次の瞬間、大隅先生のイラストが静止画面に現れ、固唾を飲んで見守ってきた周りの同僚や仲間から期せずして歓声が沸き起こった。オートファジーがノーベル賞の受賞対象になれば100%確実と言われ続け、ここ数年は毎年マスコミでも取り上げられていただけに、受賞が決まって研究者仲間にとって本当に最高の喜びとなった。興奮というよりは温泉につかってぽかぽかと温まるような、喜びがじわりと染み込んでくるような気分であった。

大隅先生との最初の出会いは、先生が留学から帰国されて間もない頃である。私は筋肉のカルシウム輸送を研究していたが、大学院時代の恩師安楽泰宏教授が主宰されていた理学部植物学教室へ足繁く出入りしてはいろいろアドバイスを頂いていた。その安楽研に大隅先生が助手として赴任されたのである。大隅先生は今も変わらぬ飄々とした人なつこい人柄で周りを和ませ、一緒に居るといろいろ話しが弾んだのを憶えている。順天堂の眼科は日本で初めてコンタクトレンズを導入した伝統が有り、あるとき大隅先生もそのことを聞き及んでかコンタクトレンズを作りたいと言われ、今は建て替えられて跡形も無い旧病院本館4階の眼科外来へご案内したことが有った。順番を待ちながら、酵母を使う研究を立ち上げ、酵母の培養を始めたがインキュベーターが故障して死んでしまい苦労している、と話されたのを憶えている。その後大隅先生は酵母液胞のカルシウム輸送系やv-ATPaseの研究で確たる業績を挙げられ駒場の教養学部で独立した研究室を立ち上げられた。
1988年木南英紀先生が新任の教授として私の研究室に赴任された。これから研究テーマをどうするかいろいろディスカッションしていく中で、たまたま当時手掛けていた胆汁分泌阻害実験のデータを見た先生が、これはオートファジー阻害かもしれない、と言われた。このことがきっかけでオートファジーに取り組むこととなった。当時も日本のオートファジー研究のレベルは高かった。九州大学の加藤敬太郎先生、山本章嗣先生や吉森保先生を輩出した関西医大の田代裕先生、山梨大学の横田貞記先生、オートファジー研究のパイオニアであるMortimoreの研究室から帰国されていた門脇基二先生(新潟大学)など、壮々たる先生たちがそれぞれグループを率いて独自のアプローチから研究されていた。オートファゴソーム膜がどのように作られるかという問題は現在でも最も重要且つ魅力的なテーマであり、当時膜の由来について小胞体膜、ゴルジ以降分泌系の膜、新生の膜(phagophore)という説を巡り様々な議論が展開されていた。どういう起源を持つにせよ、リソソームと特異的に融合するのだからオートファゴソームとして固有のマーカータンパクが有るはずである、何とかそれを見つけたい。しかし、オートファゴソームの精製が至難だということは既に知られていた。そこで注目したのは、古野浩二先生と加藤敬太郎先生が開発された、カテプシン阻害剤ロイペプチンを投与したラット肝臓に貯留してくるオートリソソームをパーコール密度勾配遠心で精製する方法であった。オートリソソームを精製し、ここからオートリソソーム膜を分離して膜タンパクを片端から同定するというアプローチである。オートリソソーム膜にオートファゴソーム膜マーカーが残存していれば突き止められる。高性能のLC/MSなど望むべくも無い時代、ひたすら膜タンパクを二次元電気泳動で分離し、イモビロンSQメンブレンに転写してスポットのN末端アミノ酸数配列を決めてデータベースと照らし合わせ、新奇のタンパクを見つけようというのである。そんな中、1992年に大隅研究室から酵母オートファジックボディーに関する衝撃的な論文がJournal of Cell Biologyに発表された。栄養飢餓条件で液胞プロテアーゼ欠損株やプロテアーゼ阻害剤PMSFを加えた野生株で液胞に出現する小胞が酵母のオートファゴソーム由来だということは直感的に明らかであった。酵母のオートファジーか!これは遺伝子に到達できるな、と瞬く間に確信できた。翌年、ノーベル賞受賞対象となった系統的なAPG遺伝子同定の論文が発表された。一方、こちらは苦戦の連続であった。同定されたタンパクのほとんどが小胞体やゴルジ由来でオートファゴソームの内腔に取り囲んだ細胞質成分と疑われるものか、三量体GTP結合タンパクや低分子量GTP結合タンパクなど、何かを示唆する感触は有ったが俄には判断が難しいものだった。時間ばかりがどんどん過ぎて行った。1994年も押し詰まった頃、鈴木紘一先生が主催された臨床研シンポジウムが市ヶ谷で開催され、私はあまり気乗りしないまま自分のデータをポスター発表した。見慣れない男性が私のポスターにじっと見入っている。声を掛けると大隅研究室の野田健司さんだった。彼は酵母でやはりオートファゴソームの膜を単離しようと頑張っているが大変難しいと言っていた。そこへ招待参加のSeglenがやって来た。Seglenもまた彼独自のやり方でamphisomeやオートファゴソームの単離を試みていたが、どうもはかばかしくはない様子であった。奇しくもオートファゴソームで奮闘している3人が一堂に会したわけである。やがてSeglenは「明日オオスミに会いに行く。彼の仕事は非常に面白い」と言って去って行った。シンポジウム後、手詰まり感は日を追って強くなり最早これまでという判断も有って、木南先生に「一旦オートファジーから撤退し、大隅先生の遺伝子がどういう働きか解ってきたらそれをヒントに研究を再開した方がよい」と告げた。
明けて1995年の1月か2月の或る日、大隅先生から突然電話を頂いた。「そっちの方はどう?実は私の同定した遺伝子群はまったく新奇なもので何をやっているか検討が付かない。多分オートファジーのシグナル伝達か何かに働いているのだろうけれど、とても独りではやれないから今の日本でオートファジーを研究している人たちに呼びかけて一緒にやろうと提案したい。そこで、今年秋の細胞生物学会でシンポジウムをやることにしました。山本章嗣さんや門脇基二さんも誘おうと思っています。あなたも自分の仕事を発表して欲しい」という話をされた。受話器を通して聞こえる大隅先生の口調はいつもよりも熱を帯びていて、APG遺伝子の研究を動物のオートファジー研究にも拡げ、何とか突破口を開きたいという願いがひしひしと感じられた。私は自分がやっている膜の仕事に難渋していて展望が見えないと言いつつも「もう限界なのでオートファジーを止めます」という一言を飲み込んで、シンポジウムに臨むことを約束して電話を切った。
半年後の10月20日、仙台国際センターで開催された日本細胞生物学会でオートファーシンポジウムが開催された(表参照)。国内から5つ、海外から2つ、合計7演題である。海外組は奥さんの病気で直前に参加をキャンセルしたSeglenの代役で3-メチルアデニンの仕事で知られるGordonと90年に粗面小胞体からオートファゴソームが派生するという連報論文を上梓したWilliam Dunnだった。5つの国内組も当時の日本のオートファジー研究グループの主要な面々である。共同座長の山本先生が口火を切って隔離膜に関する免疫電顕のデータを発表され、締めくくりに大隅先生がAPG遺伝子を総括され、アルカリホスファターゼによる新規オートファジー活性測定法を紹介された。他の発表もオートファゴソーム膜形成に関する仕事(横田、上野)かオートファジーの制御に関する仕事(門脇)で純粋に基礎的な研究である。今と違い疾患とかオートファジー不全というような話題は皆無である。広くゆったりした会場にどのくらいの聴衆が居ただろうか?100人は超えても200人には満たなかったのではと思う。聴衆の中に留学を終えて帰国したばかりの吉森先生がおられ、講演後低分子量GTP結合タンパクの系統的解析についてアドバイスをもらった。これが縁で後にAtg8(LC3)の仕事を一緒にすることができた。
シンポジウム後、演者と関係者が東北大学の艮陵会館に集い懇親会を行った。ビールで乾杯し和やかな雰囲気で語らう中、話題はオートファジーを研究する人がどんどん減って新たに参入する若手もいないということに集中した。誰々はオートファジーを辞めて別の分野に移ったというような話ばかりである。確かその中に犬膵臓のオートファジー研究で名の知れたKovacsが含まれていて驚いた記憶がある。Seglenの代役で講演したGordonにしてもSeglenの下でポジションが得られず企業に就職していたのだった。日本でも同様でオートファジー研究の将来像を描けるという状況ではなかった。静かに時間が過ぎていく。いつの間にか西から秋の落日がいっぱい差し込んで部屋中が明るくなった。これは黄昏の残照かそれとも一筋の光明なのか、心の中でそんなことを呟きながら周りを見渡すと大隅研究室の若い人たちの表情はむしろ明るく毅然としているように見えた。APG遺伝子を拠り所にしてここから何とか巻き返したいと一人一人が覚悟を決めていたのだと思う。その覚悟は他の演者にも徐々に浸透していったように見えた。今思えば、ここに留まれ、ここから再スタート、というのがこのシンポジウムの結論だったと言える。そういう意味で、このシンポジウムは現在に至る日本のオートファジー研究発展の起点、言わば研究の流れのpreautophagosomal structure(PAS)と位置付けられるのではないだろうか。

あれ以来今日まで大隅先生にはお世話になりっぱなしで来ている。1997年に大隅研究室と連携して新しい研究を立ち上げたときは、私の他にオートファジーに専念するスタッフとして助手を一人採用するのが精一杯という態勢であった。しかしその助手の適任者が中々見つからず困窮して大隅先生に相談したところ、快く応じてくれ、安楽研の後輩の谷田以誠さん(現順天堂大学)を紹介してくれた。谷田さんが助手に赴任後少し経って小松雅明さん(現新潟大学)が博士課程の大学院生として参入した。この2つの幸運が無ければ、私たちの初期のAtg7の研究は有り得ず、今日までオートファジー研究を続けることは出来なかったであろう。深い感謝を籠めて心から大隅先生のノーベル生理学・医学賞受賞をお祝いしたい。

追記:95年シンポジウムで大隅先生と共同座長を務められた山本章嗣先生と、大隅先生の直弟子で液胞のv-ATPaseやアミノ酸輸送を研究していた柿沼喜巳先生のお二人が、今年大隅先生の受賞を知ること無く他界されたことは痛恨の極みである。ここにお二人のご冥福を心からお祈りする。


(2016-11-02)

日本細胞生物学会賛助会員

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